優れた教育者
ヴァルサリチェの学校では教えるために、教師の資格が必要だった。そのため、チマッティ神父は1900年の夏、21歳で有名な国立パルマ音楽大学で「コーラスのマエストロ」のディプロ―マを修得し、1903年トリノ国立大学の農学部で自然科学の博士号を、1907年、同大学で哲学の博士号を取得した。同時に神学も勉強し、1905年、司祭に叙階された。
教師としての師の活動ぶりは信じられないほどだった。学校には、一般学生と養成中の若いサレジオ会員も通っていた。チマッティ神父の授業は明快で、態度は温和で兄弟のようだった。命令よりも納得を好んでいた。そのため、心から生徒たちに慕われていた。一生の間続いた彼らととの文通もそのことを証明している。
 師こそ、ドン・ボスコの教育法の模範であったといわれている。当時、祝い毎に、典礼、もようしのための歌やオペレッタを作曲し、快活な雰囲気をかもし出すようにしていた。またこのとき、師範学校の学生のための教育学の教科書や、農学の教科書も著した。
1912年から1919年まで、第一回世界大戦中、学校で教えながら、聖ヨハネと聖ヨセフのオラトリオ(教会学校)の責任も担い、トリノ最初のボーイスカウトの隊を作り、貧しい人びとの救済のために精力的に働いた。
 1920年、ワルサリチェの師範学校の校長となり、1922年からは修道院長の任務も兼ねた。 1925年、『教育者ドン・ボスコ』という、ドン・ボスコの予防教育法についての本を最後に著した。
そして、その年の年末に、日本へ発つことになった。

日本での宣教と暮らし目次ページへ