Concert Program

ヴィンセンツォ・チマッティ生誕125年記念
1879年−2004年

オペラ『細川ガラシア』上演

Last Update:
09-03-21
2004年 上演リーフレット (クリックすると拡大します)
2004年 上演リーフレット

2004年10月
チマッティ資料館
館長/ガエタノ・コンプリ

AMICI MUSICA DON CIMATTI 実行委員会
  代表 ガエタノ・コンプリ神父

ヴィンセンツォ・チマッティ氏は、1879年イタリアのファエンツァに生まれ、1926年来日し、40年間日本で教育事業や福祉事業などに身を捧げた後、1965年10月6日、調布で帰天しました。

自然科学と哲学・教育学の博士号を有し、パルマ音楽大学院でコーラスのマエストロのディプロ−マを修得した氏は、宣教師、作曲家、音楽家として活動し、2000回ものコンサートを開催したと言われています。1934年当時の満州、北朝鮮、韓国でも開きました。国際的にも有名なテノール藤原義江氏やヴァイオリニスト江藤俊哉氏もそのコンサートに協力しています。

チマッティ氏が残した950ほどの作曲は、イタリア人作曲家イノ・サヴィニ氏により集められ、故郷のファエンツァ市立図書館と、東京調布市の「チマッティ資料館」に保存されています。その中に49の歌劇があり、特に注目されているのはオペラ『細川ガラシア』です。

ドン・チマッティは日本においても数多くの音楽作品をつくり、戦前戦中の日本の音楽界に貴重な功績を残しました。特に1940年、日本語によるオペラが一般的ではない時代に、上智大学のホイヴェルス師原作による『細川ガラシア』は、日本初の創作音楽劇として誕生しました。日本初のオペラといわれる山田耕筰作曲「黒船」の初演より半年も前に、日比谷公会堂にて初演されています。1960年以降、このオペラは様々な作曲家の手を加えられ原曲とはかけ離れた状態で公演されましたが、それらはみなドン・チマッティ音楽の味わいとは異なるものとなりました。

今回、生誕125年の記念事業として、作曲家小栗克裕氏による周到な自筆スケッチ、ピアノスコアなどの研究をへて、なるべく原曲の響きを損なうことのないオーケストレーションが行われ、また日本語のイントネーションが不自然にならないように補作されて、オーケストラ版オペラ『細川ガラシア』が誕生しました。

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(a) オペラ『細川ガラシア』成立の経緯

(a-1) 1940年の『細川ガラシア』

1940年1月24日、東京「日比谷公会堂」で2幕5場の『細川ガラシア』が2回上演され、同年5月18、19、20日には大阪の「朝日会館」で3回上演されています。

脚本は、上智大学のヘルマン・ホイヴェルス氏が歌舞伎演劇として書いた5幕の作品(ホイヴェルス著『戯曲選集』東京1973年版、中央出版社)を、冠九三氏と高木次郎氏が2幕に縮小し、チマッティ氏がその中から12曲を作曲したものです。山本直忠氏(著名な指揮者故山本直純の父)がオーケストレーションと指揮を担当し、歌舞伎座の市川猿之助の全面的協力により片岡右衛門も出演し、洋楽側からは今泉威子、藤間清枝、坂東彌三郎、市川光男などが出演しました。戦後この作品をオペラにするために尽力した神宮寺雄三郎氏は、この時にはバテレンのセスペデス役を引き受けています。

チマッティ氏は、1940年1月31日イタリアに出した手紙にこう書きました。「メロディーはイタリア的ですが、当然、環境の雰囲気と好みに合わせて、日本独特のメロディーも取り入れています。この作曲は、日本でまだ生まれていないヨーロッパ風のオペラのための下準備といえます。」

この言葉からも明らかなように、氏はいつの日かこの作品を真のオペラ(グランドオペラ)に仕上げるつもりでした。

なお、その年の秋には日本人による最初のオペラといわれる山田耕筰の『夜明け』(後に《黒船》と呼ばれた)が上演されています。

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(a-2) 1960年の『細川ガラシア』

戦後、この音楽ドラマの魅力と価値を知っていた国民歌劇協会の神宮寺雄三郎氏は、「グランドオペラ」にするように何回もチマッティ氏に依頼し、1954年から1959年までドラマ全体の歌やピアノ伴奏が作り直され、現在の3幕のオペラ『細川ガラシア』が生まれました。神宮寺氏はチマッティ氏の元で原本を写譜し、現在、原本も写譜も「チマッティ資料館」に保存されています。これに基づいて、作曲家塚谷晃弘氏がオーケストレーションを作り、ここにオペラ『細川ガラシア』が誕生しました。

明智光秀の三女として生まれた主人公細川ガラシアは、細川忠興の妻となり、父が織田信長を殺した後、夫への忠誠を守るため自らの命を捧げることにしました。その毅然とした姿は多くの幅広い日本の聴衆の心に強い共感を与えつづけ、今日に至っています。

オペラの初公演は、1960年5月27、28日東京の「文京公会堂」にて、大谷冽子のガラシア役で行なわれています。この公演にチマッティ氏も参加しましたが、その隣に座っていたヘルマン・ホイヴェルス氏は、後日こう証言しています。

「チマッティ神父は、自分が作曲したメロディーを聞こうとして耳をすませていたが、それはなかなかあらわれなかった。オペラのあらゆるところ、チマッティ氏の心から湧き出た新鮮で快い音楽が冷まされたり、抑えられたりして、作品が作り変えられていたのである。ガラシアの有名な別れの歌の高音も下げられているのを耳にしたとき、チマッティ神父は寂しそうに頭を下げ、「御むねのままに!」とつぶやいた」

つまり、自分の音楽がオーケストレーションによって変えられたので、原作者の本人は満足しなかったということになります。

同じ形で1965年1月23日「読売ホール」で上演されましたが、当時病床についていたチマッティ氏は参加していません。

1966年5月5日と6日には、日本を代表するオペラ演出家 粟国安彦氏の監督の元で虎ノ門ホールで公演され、さらに1967年10月6日、東京文京公会堂で公演されましたが、チマッティ氏はすでに1965年10月6日他界していました。 

その後、近年では、1989年1月21日熊本市、27日は東京で、熊本出身の作曲家出田敬三氏のオーケストレーションで上演されています。しかし、これもまたその音楽は到底チマッティ氏の作曲といえないものでした。脚本を含め、歌も大部分が大幅に編曲、改変されていたのです。

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(a-3) 2004年、原曲に忠実な『細川ガラシア』

以上、「チマッティ資料館」に保存されている資料に基づいて明らかになった、チマッティ作曲『細川ガラシア』の戦前・戦後を通しての成立と上演の経緯です。

このオペラは、外国人による日本語の最初のオペラ、イタリアと日本音楽を融合した興味深い作品、日本の洋楽受容史に確かな地位を占めているもの、日本におけるヴィンセンツォ・チマッティ氏の音楽的なオリジナリティを見事に証明するものとなっています。また注目すべきは、この作品が氏の最後の大きな作曲であること。実際、着手したのは75歳の時、完成したのは80歳の時でした。本人は、1960年の公演のために書いたメッセージの中に次のように述べています。

「3年間、時間にとらわれず自由に楽しみながら書くことができました。そして私の作品の最も大きなものです。日本歌劇の樹立を目指して永年努力している神宮寺さんのお役にたてば幸いです。」

1963年11月8日、病床にいたチマッティ氏は、日本の文化に貢献したことを認められ、「勲三等瑞宝章」を授けられました。以前、イタリア政府からも2回勲章を受けていたのです。

今年、ヴィンセンツォ・チマッティ氏生誕125周年にあたります。その記念に、10月6日の命日の後、8日と9日、今こそ本来のオペラ『細川ガラシア』を忠実に紹介すべき時が来たと判断しました。そのため、まず、オリジナルに忠実な、優れたオーケストレーションが必要であると判断し、慎重な人選を経て、その卓越な技量において海外でも多くの受賞歴があり、特にオーケストレーションに比類なき才能を発揮している作曲家小栗克裕氏にお願いすることにしました。

お願いするにあたり、上記のオペラ成立の経緯をご説明し、氏の十分なご理解と音楽的な熱意を得られました。

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(b) プログラム:オペラ『細川ガラシア』 (全3幕) コンサートオペラ形式

《公演情報》

作曲 ドン・チマッティ 1940年復刻版
オーケストレーション・補作 小栗克裕 脚本 ヘルマン・ホイヴェルス師
日時/場所 2004年10月 8日(金) 開演19:00/9日(土) 開演15:00/東京オペラシティコンサートホール
主催 アミチ・ムジカ・ドン・チマッティ実行委員会 (AMICI MUSICA DON CIMATTI)
協賛 イタリア文化会館/イタリア商工会/学校法人上智学院/イエズス会/サレジオ修道会/カトリック教育連合会
後援 ローマ教皇庁大使館/イタリア大使館
演出原案 栗山昌良 演出補 黒田晋也
指揮 内藤 彰 演奏 東京ニューシティ管弦楽団 合唱 平松剛一指揮/平松混声合唱団
出演 遠藤久美子/大橋ゆり/加賀清孝/黒田晋也/谷 茂樹/稲垣俊也/松本 進/
近藤 均/ 島田道生/中島実紀/石川真弓/城田佐和子/島田瑠奈

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(b-1) 細川ガラシアの生涯

1563年、織田信長配下の武将明智光秀の三女玉子として生れ、16歳の時細川忠興に嫁ぎました。1582年父光秀の本能寺での信長への謀反により、忠興は玉子と19歳の時離縁し、2人の幼児とともに丹後の山里、味土野(みどの)へ幽閉されます。その2年後には復縁を許され大阪の玉造の屋敷に住むようになりますが、ここの南蛮寺でキリスト教に出会います。玉子が25歳、1587年の時、清原マリアより洗礼を受け、洗礼名は神の恩寵、ガラシア。ここに「細川ガラシア」が誕生します。のちに天下分け目の合戦、関が原の戦いの端緒ともなった石田三成による細川邸襲撃の際、三成の人質になることを拒み、こどもを逃がし猛炎の中、最後の祈りを捧げ、家臣に胸を突かせ壮烈な最期を遂げたといわれています。1600年、細川ガラシア37歳の時でした。

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(b-2) オペラ『細川ガラシア』のあらすじ

第1幕 味土野の蓮池の場

父、明智光秀の本能寺の変に際し反逆者の娘として、夫忠興から離縁を申し付けられた玉子は、細川領丹後の国、味土野の地で幽閉の身を送ることになりました。そこで玉子のみたものは、戦国の世とはいえ、人の命の尊さ、また蓮池にいまを盛りと咲いている蓮の花がやがて沈み込んでいく様など、そのはかなさへの痛切な思いにほかなりません。夫と離別し独り住むわびしさに、侍女清原マリアの励ましもあり、強く正しく生きることの大切さもまた教えられます。

やがて時が過ぎ、細川忠興からよろこびの使者が復縁をつげ玉造への帰宅が許されます。

第2幕 南蛮寺の門前の場

玉造の細川邸に帰った玉子は、しばし幸福な日を送りますが、忠興が九州征伐に出向いた留守の折、清原マリアに連れられ南蛮寺を訪ねることになりました。・・・桜咲くお花見の人だかり、妖しげな笛売りやら酔っぱらい、巡礼の親子・・・それらに屋敷からいなくなった玉子と清原を探しまわる家臣正時など、南蛮寺の門前ではにぎやかなドラマが繰り広げられています。セスペデス神父とのやりとりなどを通し、外出もままならない玉子は、これ以降、自らの信仰を深めやがて自宅にて清原マリアにより洗礼を受けることになるのです。

第3幕 玉造細川邸の場

豊臣秀吉の死後、家康打倒の中心になる石田三成は、忠興が上杉との一戦のため北陸に向かったその隙を狙い、玉造の細川邸を急襲します。細川ガラシアは敵陣にとらえられるのではなく、南蛮寺への避難をすすめる清原マリアに2人の子を託し、武将の妻として「自らの命は神に捧げてある」と祈りを捧げ、家臣小笠原少斎により清冽な死を迎えるのです。攻め込んだ敵が見たものは、燃えさかる火中に輝く十字架だったのでした・・・<散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ>

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(b-3) 作曲者ドン・チマッティとは

オペラ『細川ガラシア』の作曲家ドン・チマッティは、ヴィンチェンツォ・チマッティとして1879年イタリアのファエンツァ市に生れました。17歳の時サレジオ修道会に入会し、すでに作曲をはじめています。パルマ音楽院にも学びながら、トリノ大学に入学し自然科学や哲学の博士号を取得しています。司祭に叙階され、校長や修院長を歴任。46歳の時、1926年大正15年9人の宣教師の団長として来日後40年を日本で過ごしますが、戦前戦中と全国で約2000回のコンサートを開催、約950曲余りの作品を残しています。その間多くの日本人音楽家を育てたことでも知られ、なかでも少年ヴァイオリニスト江藤俊哉に注目しながら育て、全国でのコンサートにテノールの藤原義江などとともに協演していたことも知られています。戦後は教育活動や福祉活動に邁進し、1963年には勲三等瑞宝章を受け、1965年86歳で天に召されました。その後もその人徳は輝き、1977年列福調査に際しその遺体が検証され、腐敗のないことが確認されました。1991年にはローマ教皇より「尊者」の称号を授けられました。

作曲家ドン・チマッティの存在は、いままでは深く日本の歴史の隠れていたともいわれ、現在その全容が徐々に明らかになっています。

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※ ドン・チマッティの音楽、文献、資料については「チマッティ資料館」へ ※