16歳のヴィンチェンツオ・チマッティ  




ヴェルサリチェ



  ヴィンチェンツオがファエンツアで過ごした最後の年  


  1895年は15歳のヴィンチェンツオがファエンツアで過ごした最後の年であります。小学校・中学校を終えて将来に何をするかを決めた年でもあります。 兄のアロイジオはもうすでにサレジオ会に入っていて南米の宣教師になる願書を出していました。お母さんのローサは57歳になって一人で生活していました。
 財産はなかったが、彼女はとても元気で、機織りの仕事を通して生活費を稼いでいました。 彼女は神に二人の子供をささげたばかりでなく、末っ子のヴィンチェンツオがサレジオ会に入会する申し出に、彼を励ましながら喜んで承諾を与えました。
 晩年のチマッティ神父の話が残っています。1895年のある日に、ファエンツアサレジオ学校のヨハネ・リナルディ院長は私を呼んで尋ねました。
 「トリノへ行ってそこで自分の勉強を続けたらどうですか」。
 私は何回も学校の聖歌隊と共にトリノ市に行っていましたが、今回のトリノへ行くことはドン・ボスコの子供になりませんかと言う意味であったので、前に考えていたことですので、すぐ「はい喜んでトリノにまいります」と答えました。



  修練院でのヴィンチェンツオ    


 まだ16歳になっていないヴィンチェンツオはこのようにして、リナルディ院長に伴われて1895年8月26日に修練院であったトリノ・フォリッオに着きました。
 実は彼が修練期を始めたのはその年10月2日です。サレジオ会修練期とは、一年間すべての外のことを差し置いて、ドン・ボスコの精神を勉強し身に付ける時であります。修練長はユージェニオ・ビアンキ、助ける神学生はアロイシオ・テッロネと、後に中国で殉教者となるアロイジオ・ヴェルシリアでした。 修練者は100人以上の若者でした。
 ヴィンチェンツオは歌もピアノを弾くのもやめるつもりであったが、長上らは彼のタレントを知っていて、それを続けながら、歌係りの神父を手伝うように求めました。
 半年はすべて順調に進んだが、ヴィンセンツオは16歳になってから、ソプラノの声が変わり始め、長上らは彼に歌うことを禁じました。彼はそれを受け入れたが、大きな悩みを感じました。その時に次のことばを書いています。
 「実はその声はファエンツアで私の召し出しを危険にさらさせたのです」。
 この間のヴィンチェンツオはどう言う青年だったのだろうか。養成に修練長を手伝ったテッロネ神父のことばがあります。このことばには当時の長上らの評価が見られます。
 「チマッティは多くのタレントの持ち主で、100人以上の修練者の中で抜きんでていたが、祈り、規律、喜び、人の奉仕におけるその謙遜と快さのために、だれにも妬みを感じさせていませんでした」。
 こうして、16歳3カ月のヴィンチェンツオ・チマッティは、1896年10月4日に、主に自分を永久におささげしました。



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                   令和 3年 3月 6日


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