歩き回る主任となるチマッティ神父(1935〜36年)  






教区長会議

教区長会議

田野教会を世話するチマッティ神父

田野教会を世話するチマッティ神父




  宣教する人材の不足で困っています  


 1935年は宮崎・大分知牧区にとっては発展の年でありました。正式に宮崎・大分は知牧区となり、チマッティ神父はその教区長となったばかりでなく、 サレジオ会宣教師のおかげで多くの新しい宣教の場が開かれるようになりました。大分市に大きな教会の建物ができ、 別府市にも小さい木造の教会が出来ました。チマッティ神父は宮崎教会を知牧区の中心地に定めましたが、実際には そこでは僅かの時間しか過ごせませんでした。トリノの長上に手紙を出してこの時の宣教状況をこのように報告しました。 「宮崎の小神学校に50人、宮崎救護院に100人の高齢者、中津に20人の志願者、更に宮崎教会、大分教会、中津教会、 その他に高鍋、都城、田野にも多くの信徒がいて司祭が訪れる宣教地になっています。 東京では三河島教会、練馬地区では修練院と出版の家が出来ました。宣教する人材の不足で困っています。」



  高鍋・都城・田野市を歩き回る主任司祭    


 このようなことで、教区長に任命されたばかりのチマッティ神父は1935年から1937年まで、高鍋・都城・田野市を歩き回る主任司祭となりました。 都城と田野市では教会の建物、また司祭の住む家がまだ出来ていませんでした。
 宮崎教会の記録にこの言葉が残っています。
 「チマッティ教区長は一週間に僅かな時間しか事務所にお出でになりません。 それは、出歩いて高鍋・都城・田野の信徒の家族を世話しなければならないからです。」
 高鍋には東京へ移った神学生が使っていた修道院と教会があり、日曜日のミサがチマッティ神父の務めとなりました。
 都城は当時、兵隊の多い町でした。都城には信者の家族が何軒か住んでいたので、チマッティ神父はミサ・要理の勉強、 家庭訪問のために毎土曜日の夜に通うようになりました。実際にチマッティ神父はこの町に「ビンチェンツオ ア パウロ」 の会を開始し、貧しい人のために無料診療所を開いたのです。 都城の信徒はチマッティ神父についてこのようなことばを書きました。
 「大きな祝いには信徒が皆集まっていました。チマッティ神父はゆるしの秘跡、そしてミサを捧げてから話をしていました。 そのテーマは神の慈しみ、主への信頼でした。聖母マリアを私達のやさしいお母さんと呼んでいました。 彼はお父さんのように話をし、優しさ、忍耐、謙遜そのものでした。 その後に私達の家においでになり、お茶を頂いてからすぐにお帰りになりました。 チマッティ主任神父は私達にとって神を表す特別な存在でありました。」



  <ベネ・ベネ> 石の上にも3年    


 田野市には1930年辺りから、いくつかの家族が長崎から移住し始めました。 短時間でキリスト者の家族は増えましたが世話する神父がいませんでした。
 里脇家のお父さんが宮崎に行き、チマッティ神父に彼らのことを知らせました。 そういうことで、1935年からチマッティ教区長の多くの日曜日が、ここで過ごされるようになりました。
 当時の田野と言えば、何もない所でした。駅から信者の村まで3キロ、畑、林、信者の貧しい住み家。 一人の信者のことばを借りましょう。
 「チマッティ神父がおいでになると、村の子供たちが彼を迎え、まだ黒かった髭に触ったり、 スータンにしがみついたりしていました。彼は<ベネ・ベネ>と言ってそれをゆるしていました。石の上にも3年。」
 チマッティ神父の後継者のことばが残っています。
 「犠牲の好きな神父でないと、田野市に住むことは不可能であります。」



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                   令和 4年 5月 6日


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