この考えを実践するために1932-34年の期間に全力を注ぎました
日本に住んで、チマッティ神父とサレジオ会員は6年間の福音宣教の経験を身につけました。
実りもあったが、多くの困難にも遇っていました。福音を伝える時の誤解、日本の宗教、天皇陛下の礼拝、軍国主義、愛国主義、経済的な貧しさなど。
チマッティ神父は多くのコンサートに招かれて日本で大活躍をし、宮崎・大分・別府・中津市で働いていたサレジオ会員を励まし、
目標を与え、自分のはっきりした考えを分かち合っていました。
例えば「日本ではことばでだれをも傷付けることがないように、ことばよりも親切と愛のわざに力を注ぐこと、日本での福音宣教を日本人に少しずつ委ねること、など」。
実はこの考えを実践するために1932-34年の期間に全力を注ぎました。
救護院・孤児院・志願院・東京三河島地区
チマッティ神父は若い時から、病人・年寄に対して弱みがありました。日本に着いて殆どすぐ宮崎の主任司祭になり、家庭訪問の結果として、自分の手帳にこのことばを書いていました。
「宮崎では置き去りにされている年寄が多い、何かを彼らのために計画しないといけない」。
ある時、コンサートのために熊本市を訪れた時があります。そこでフランシスコ会のシスターズが思い皮膚病の患者を世話していました。
患者には元気な子供がいて、その子供のためには場所がありませんでした。
チマッティ神父は「この子供たちのために何かを計画しないといけないですね」と。
このようなことを考えていて、やっと1932年に実現できるようになりました。
宮崎市の多くの人の望みと支援もあり、宮崎教会の主任司祭であったアントニオ・カボリ神父の活発な協力を得て、「平屋の救護院」を開くことになりました。
そしてしばらくしてから、そこに「孤児院」をも加えました。言うまでもなく、それは愛の見えるわざとして、また宮崎でのキリスト教普及のためでした。
それからあくる年1933年、いくつかの失敗の後に、聖座から援助を受け、修道・司祭召命を育てるために、宮崎市に土地を買い、木造の建物をつくってもらって、
志願院としてその年に落成しました。
どういう分けかわかりませんが、短時間で30人の若者で一杯になりました。チマッティ神父はこの若者の養成に心と自分の全力を向けました。
1933年にはチマッティ神父のもう一つの願望が叶えられました。東京のシャンボン大司教はサレジオ会に東京の一番貧しいところであった三河島地区を委ねました。
ドン・ボスコがローマで「聖人」と宣言さる…東京の大聖堂で荘厳な歌ミサ
1934年4月1日はサレジオ会創立者ドン・ボスコがローマで「聖人」と宣言されました。
チマッティ神父は参加できませんでしたが、日本で、しかもまず東京で、そして九州のサレジオ会の教会で荘厳に祝いました。
彼は、東京の大聖堂で、マレッラ教皇大使と東京の大司教の出席を得て、4月29日に荘厳な歌ミサをささげました。
丁度その時期に横浜港にイタリアの海軍の船が停泊していましたので、海軍のブラスバンドが一緒にそろって参加したので、
知れ渡るイベントとなりました。
マレッラ枢機卿は33年後に、そのミサを思い出して、このように書きました。
「チマッティ神父はあのミサを精一杯、バリトンの声で歌いました。彼の美しい声はあの大きな教会で良く響いていました。
彼がミサ後に打ち上げてくれたことばを思い出します。『今日は慰めを感じました。』」
チマッティ資料館 マルシリオ神父
令和 4年 3月 6日
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