一休みを与えられたチマッティ神父(1949−1953年)   




調布サレジオ神学院の新築落成式

調布サレジオ神学院の新築落成式

チマッティ神父手書きの16冊の図書台帳

チマッティ神父手書きの16冊の図書台帳



  特別な役割のないひと時?   


 チマッティ神父は70歳になり、管区長職を終え、サレジオ会員の普通の修道生活を送るようになりました。 トリノの長上たちと彼の後任はチマッティ神父の25年間の長い苦労を労って、特別な役割のないひと時を彼に過ごさせることにしました。
 この時、一人の会員がチマッティ神父宛の手紙に、このように書いていました。
 「神父様、日本の会員のために今まで多く働き、年を重ねてきたでしょう。今、休みのひと時を取るのは当然なことではないでしょうか。」
 しかし、実際には、これはチマッティ神父の望むことではありませんでした。1949年度の終わりまで練馬の神学生と共に生活し、 あくる1950年に、神学院は調布に移り、チマッティ神父も一緒にそこに住むようになりました。 神父様の生活は、時間割、勉強、祈り、作業、司祭の使徒職全部、そして神学生とともに、また彼らのために務め、 さらに調布神学院は短期大学でもあったので、その図書館の本の整理と目録作成の仕事をも授かりました。
 神学院に修練院もありました。急に修練長がいなくなり、結局チマッティ神父はその役割も果たすことになりました。 そのほかにサレジオ会、扶助者聖母修道会の毎年の黙想会の指導を引き受けることになりました。 これだけの仕事を受け持ったチマッティ神父は「一休みを取っている」とは、はたして言えるのでしょうか。
 この時のチマッティ神父の心情を伺うことにしましょう。外国の長上に送った手紙にこの考えを表していました。
 「私は皆から忘れられたいのです。ここで沈黙と希望の内に神との決定的な出会いを待っています。 私の望みは祈りを学ぶこと、謙遜と心の清さの恵みを得ることです。」



   この時を一緒に過ごした会員のことばを聞きましょう    


 調布神学院で教えていた一人の先生はチマッティ神父の思い出をこのことばで語りました。
 「埃だらけの本を棚から下ろし、整理カードに本の題と著者の名前を書いていたチマッティ神父を思い出します。 その姿は25年間も日本管区を導いた真剣なものでした。」
 チマッティ神父の黙想会での話を聞いた中国人のことばもあります。
 「私は本物のサレジオ会員に会いました。話は純粋なサレジオ会員の話でした。」
 調布の一人の神学生はこのように書いています。
 「チマッティ神父は一番年上の会員でした。しかし共同体の活動から免除してもらった時はありません。 食堂で畑の働きをしていた修道士の前に座り、彼といつも自然にまた楽しく話していました。」
 ほかの神学生のことばがあります。
 「夜の食事の後に、建物の外で20分ぐらい歩く習慣がありました。 私達神学生はいつもチマッティ神父を囲み、彼としゃべりながら、歩いていました。 しかし、たまに一人で歩く院長に会う時がありました。その時、チマッティ神父は「私はまだロザリオを唱えていませんので」と言って、 私達が院長を囲んで歩くようにしていました。」
 一人の修練者のことばもあります。
 「私達の役割の一つは食事の後に皿洗いをすることでした。チマッティ神父はいつも私達と共にいたばかりでなく、 彼は私達と共に皿を洗っていました。彼と一緒にいた時に私達はとても嬉しかった。」



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                  令和 5年 8月 6日


  チマッティ神父の生涯目次ページへ