イタリアでの尊者チマッティ神父の活動の評価  




神学生への挨拶



  46年間もイタリアで過ごしたのでした  


 チマッティ神父は日本に派遣された時には46歳でありました。46年間もイタリアで過ごしたのでした。 若き時をファエンツァで過ごし、その後はサレジオ会に入ってから修練者としてトリノ・フォリッゾで神学生として、 それから、司祭、先生、校長、院長としてヴァルサリチェ学院で過ごしました。



  人々の中のチマッティ神父    


 彼が生活を送った三つの町の人々から、彼はどのように思い出されているのでしょうか。
 ファエンツァでは彼のソプラノの声が忘れられないものとなりました。「天使の声」、「歌う時に彼はお祈りをしていたばかりでなく、聞く人をも祈りへ導いていました」と。
 トリノ・フォリッゾでチマッティ神父は137人と一緒にサレジオ会員になりましたが、「ヴィンチェンツォ・チマッティはすべてにおいて抜きんでていました」と。
 ヴァルサリチェ学院で神学生になって、教える資格を取得する前に、彼は音楽の先生をさせられて、あたかも唯一の先生であるかのように、「先生」と言う名称を与えられました。 その時の彼は、「だれをも丁寧に迎えるいつも微笑む先生」、「私達にとって、ヴィンチェンツォ神学生は愛と犠牲の天使でありました」と思い出されています。



  尊者アンドレ・ベルトラミ神父    


 実はチマッティ神学生がヴァルサリチェ学院に赴任された1896〜97年に、そこで尊者アンドレ・ベルトラミ神父に出会いました。 ベルトラミは27歳で肺結核のためになくなってしましましたが、チマッティ神学生はたった一年間ですが、この若い神父に接する事ができ、 とても深い感銘を受け、その方から生活の目標をもらいました。それは「人のために苦しみ、祈り、仕事を捧げること」です。 確かに、チマッティ神父のイタリアでの生活は、このことばでよくまとめられるのです。
 1905年に、チマッティ神学生は司祭叙階を受けてサレジオ会司祭となりました。この時から「彼のことばは神を体験したものとなり、同時に神を体験させる心から溢れ出るもの」となりました。



  新しい校長    


 チマッティ先生については、「彼の授業は生徒が待ち構えていた授業であり、退屈する生徒はいませんでした。授業はいつも明解で情熱のこもったものでありました」と。
 1920年にヴァルサリチェ学院の校長が急に亡くなり、新しい校長がヴァルサリチェ学院のサレジオ会の先生たちの中から選ばれるために会議が行われました。 しばらくしてから本人が現れ、学院の生徒たちは喜びの余り、いやがるチマッティ先生を捕まえて、肩に乗せ、学校の運動場で神輿のように練り歩きました。 皆がワイワイ叫んでいましたが、彼はその時泣いていました。
 「彼は校長になっても、決して厳ししい顔を見せず、前と同じように毎週18時間の授業を教え、私たちと共に歩いたり、遊んだりしていました」。



  学院の院長    


 イタリアですごした最後の3年間、チマッティ神父は学院の院長になりました。
 「彼にはどんな時でも近づいたり、話したりすることが出来ました。彼は謙遜で、学園の中でいちばん手が汚れる仕事を行っていました」。
 チマッティ神父はヴァルサリチェ学院で29年間も務めました。その学院の良き運営のために三つの会を創設し、いつもその頭として働きました。
 「針金の会」、学院のあらゆる催しを準備し片付ける人の会。
 「ドン・ボスコの騎士の会」、学院内の運動場を取り巻く廊下があり、その中央にドン・ボスコの墓があり、そこをいつも掃除する人たちの会です。
 「音楽の会」、劇の台詞を書いたり、それを演劇したりする人たちの会です。チマッティ神父は言うまでもなく、いつも作曲したり、ピアノを弾いたりしていました。
 ヴァルサリチェ学院で1921年から1925年まで多くのオペレッタが作曲され、上演されました。例えば、「太陽の光線」、「ヴィシュヌーの金の百合」、 「ベン・イスラエル」、「サレジオの聖フランシスコ」、「ドン・ボスコの夢」、「愛の主」、「酋長の夢」など。
 全世界で一番知られるようになったのは「マルコ漁師」です。このオペレッタは1922年の無原罪のお祝いにヴァルサリチェ学院で初めて披露されました。
 これらのオペレッタのタイトルを見るだけで、若いチマッティ神父の宣教師の心が浮かび上がるのです。



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                   令和 3年 9月 6日


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