1949年11月:チマッティ管区長の交代   




小平サレジオ学園新築の落成式。高松宮殿下のご臨席を賜る

小平サレジオ学園新築の落成式。高松宮殿下のご臨席を賜る

新管区長と視察者との記念写真

新管区長と視察者との記念写真
  前列、向かって右から4人目がタシナリ神父



   1945年〜1947年 戦争後の目標  


 1945年に日本では戦争が終わり、その結果として日本全体は、ことばでは表現できない貧しさに陥りました。それでも、すぐに回復の道を歩み始めようとしていました。
 日本でサレジオ会の福音宣教と関係していた事業の建物は、別府市を除いて、すべて建て直さなければならない状況に置かれていました。
 戦争の終わりに幽閉されていた外国のサレジオ会員は戻り、若い日本人の会員のうち6人は天国に召されました。
 チマッティ神父は来日して20年、66歳になっていて、ますます若い会員に福音宣教の責任を譲る気持ちになっていましたが、サレジオ会本部の長上は彼に耳を傾けてくれませんでした。
 チマッティ神父は戦争の間に遭遇した困難については悩むことなく、だれをも恨むこともなく、日本で働いていたサレジオ会員を集め、戦争後の宣教活動に次の目標を与えました。
 「会員は戦争前の仕事の場に戻り、オラトリオに力を注ぐこと。
  委ねられた信徒のキリスト教生活の刷新のために破壊された建物を建て直すこと。
  協力してくださっていた方々との縁を取り戻すこと。
  印刷物に力を注ぐこと。
  日本を支配している外国の当局者から来る援助を有効に使うこと。
  ことばを少なくして、手一杯良いわざを皆に施すこと。」
 この指導に従って、1945ー1947の2年間に渡るサレジオ会員の献身的な働きによって、日本のすべての宣教地の建物を立て直すことが出来るようになりました。チマッティ神父は1946年、都城の教会の落成式に、
 「短時間でこれが出来たのは神が今でも奇跡を行っておられるしるしです」
 と言うことばを口にしました。
 この間、チマッティ神父に喜びをもたらしたのは、サレジオ会員が再び宮崎教会や神学院に戻り、働き続けることが出来たこと。 また、大分県の中津と東京都の国分寺に、戦争で親を亡くした子供たちのために、新しい施設を開くことでした。



   1947年〜1948年 チマッティ神父のイタリア滞在    


 チマッティ神父は1947ー1948年をイタリアで過ごしました。戦争のためにこの時まで延期されていたサレジオ会第16回総会に与るためです。
 総会の間にドン・ボスコの生まれ故郷までの巡礼が行われ、それに当たり、サレジ会の世界で知られている「ドン・ボスコの家」を作曲しました。 イタリア・トリノでの総会は1か月間だったのですが、チマッティ神父は日本に戻る船を待つために1年間も留まらなければなりませんでした。 イタリアで、日本とサレジオ会の活動を紹介するために250回ほど講話を行われたと言われています。



   1949年 管区長交代    


 1949年8月15日、日本では聖フランシスコ・サビエル来日400周年が祝われました。チマッティ神父はこの祝いを準備するために様々な町で音楽コンサートを開き、 その祝いに大変貢献しました。
 チマッティ神父はこの年の7月に70歳になり、サレジオ会の長上たちと予め相談して、日本のサレジオ会の新しい管区長を決めていました。
 1949年11月の始めにサレジオ会総長の代理が日本を訪れ、日本のサレジオ会の新しい管区長を発表しました。 それはチマッティ神父の教え子であったタシナリ・レナト神父でありました。
 これで、チマッティ神父の長年の念願が叶えられ、また、サレジオ会員に慕われ、功績を残しながら、24年間の長上の責任から解放されました。



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                  令和 5年 6月 6日


  チマッティ神父の生涯目次ページへ