日本へ旅立った9人のサレジオ会員  




船上の宣教師達



  日本への船の旅  


 チマッティ神父を団長に、9人のサレジオ会員は1925年12月29日夕方、ジェノバからドイツ船フルダ号に乗って日本へ出発しました。
 42日間の海上の旅でした。船はお客を降ろし、また迎えながら給油のために色々な国の港、 ポルセデュ、アデン、コロンボ、シンガポール、ホンコン、シャンハイに寄港しました。日本の門司港に着いたのは1926年2月8日の朝8時でした。



  船上での上原専禄教授との出会い    


 船で宣教師たちは一人の日本人、上原専禄教授に巡り合い、日本語を毎日教えてもらいました。
 チマッティ神父のことばによると、彼は人柄の良い人「ブラーボ、ブオーノ」でした。
 上原先生のチマッティ神父についての証言があります。

 『私はイタリアから日本まで、日本を初めて訪れるサレジオ会の宣教師たちと旅をしました。
 彼らの態度と親しみある接し方に、深い感銘を受けました。船には他の宣教師もいましたが、私はサレジオ会員にだけ容易に接することが出来ました。
 チマッティ神父はそのグループの中心人物でした。 彼はことば少なく、質問にいつも穏やかに答え、微笑みの顔を見せながら、手紙を書いたり、本を読んだり、勉強したり、いつも何かを行っていました。
 私はある時、彼に申し上げました 、「日本語が余り分からないので、日本に着いたら大変な目に遇うでしょう」、と。
 その時から45年経ちましたが、未だにその時の返事が耳に残っています。
 「主は私達がどこにいるかをご存じです。心配は無用、主の御摂理に私達をお委ねします」。
 チマッティ神父は背の低くい人でした。そして、ことば少なく、しかし親しみやすい人で、穏やかで思慮深い人でした。 私は彼を見て、私が知っていた有名なお坊さんの姿を思い出しました。
 ある時、また彼に尋ねました。「日本に着いたら何をするつもりですか」と。
 チマッティ神父は、「すぐ日本人の福音宣教に専念するつもりです。他のことはその時、その時」、と答えて下さいました。
 私は日本でもオーストリアのヴィエンナ大学でもキリスト者と縁がありましたから、彼らからは何回も説教されましたが、チマッティ神父は私に対してそのように振舞ったことはありませんでした。
 彼は押し付けたり、出しゃばったりしませんでした。むしろ自分の考えが異なっていても、人の言うことを歓迎し、いつも聞く姿勢を示していました。
 もし私が教えを乞うたなら、きっと彼はカトリックのことを私に教えたに違いありませんが、私が願わなかったので私の意志を尊重して下さいました。
 長い年月が経っていますが、他の神父たちと違って、チマッティ神父の思い出は深くて美しいものです。
 彼は広い心と視野の持ち主でした。他人の感情と考え、人となりをいつもありのままに大事にする人でした』



  チャペルの畳に接吻    


 チマッティ神父と他の8人のサレジオ会員は門司港でパリミッションのマルティン神父に迎えられ、彼の家に寄り、そこでチマッティ神父はチャペルに入り、皆と神への感謝を唱えてから、 そのチャペルの畳に接吻し「これは主が私達に与えて下さった祝福された新しい住まいであります」と仰いました。




                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                   令和 3年 10月 6日


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