日本に着いて・・・1年目(1926年)  




長崎司教と共に



  日本に着いたのは1926年2月8日  


 チマッティ神父を団長に、9人のサレジオ会員宣教師が日本に着いたのは1926年2月8日でした。 日本殉教者の聖地である長崎を訪問してから、彼らの宣教の地となっていた宮崎の方に赴きました。 パリミッションの神父ボネカゼと何人かの信者に迎えられ、2月14日に宮崎カトリック教会の司祭館に住むようになりました。 彼らはすぐ教会で神に感謝し、日本で「キリスト者の助け・殉教者の妃」の称号で称えられていた聖母マリアに自分の活動をおささげしました。



  宣教師たちは話せない大理石の像のよう    


 「日本での福音宣教は難しい、風土に慣れるのは辛い」と言われたことを早速、体験するようになりました。 最初の宣教師であった聖フランシスコ・ザヴィエルのことばがあります。
 「宣教の活動の始めには宣教師たちは話せない大理石の像のようなもので、人が彼らについて話をし、彼らに話かけるだろうが、彼らは何も解らずに、赤ん坊になった感じがするでしょう」
 実際にサレジオ会員たちは小学生の本を手にして、1年間も日本語の取得に大変苦労しました。 チマッティ神父はその本に載っていた短い詩にメロディを付けながら日本語を口にし始めました。しかしほとんどすぐに使徒職に励み始めました。



  信者の印象は    


 チマッティ神父は3月の聖ヨセフの祝いのためにグレゴリオ聖歌のミサを子供たちに教え、5月、聖母の月に当たって、教会で夜に信者と共にロザリオを唱えてから宣教師たちの一人が日本語で話をしました。
 信者の印象は、面白い「この宣教師たちは教会ではよく日本語を話せるのに、外ではことば一つも理解できない」。 チマッティ神父はリナルディ総長への手紙にこのように書いています「皆は一所懸命に日本語の勉強をしていますが頭が固くて単語を覚えるのに時間がかかります。 神様に希望を置いています。聖フランシスコ・ザヴィエルは私達ほどに日本語を話せなかったのに、日本を歩き回りました。彼は聖人であったからです。私達も彼に負けないようにしようと思っています」。



  多くの信者の家はあばら家で    


 チマッティ神父は夏休みの後に、ボネカゼ神父と共に、宮崎教会の信徒を知るために、全信者の家庭訪問をし、その印象を次のことばにしました。
 「多くの信者の家はあばら家で、ベトレヘムのイエスもこんな貧しい家に生まれなかった。福音は貧しき者のものであることを再び確信しました」
 サレジオ会員は宮崎教会の綺麗な庭を、子供に遊ぶ場所を与えるために運動場に変えました。



  信者もチマッティ神父を愛していました    


 1926年はアシジの聖フランシスコ帰天700周年に当たり、鹿児島のフランシスコ会に招待されて、サレジオ会員は最初の音楽コンサートを行い、 日本の福音宣教に実りをもたらすこの良い方法を学びました。
 ボネカゼ神父はこのことばを残しました。
 「宮崎教会には、前と違って、多くの子供たちが来るようになりました。サレジオ会員はチマッティ神父に対して大きな尊敬をあらわしていたばかりでなく、 教会の信者もチマッティ神父を愛していました。チマッティ神父にはサレジオの聖フランシスコの愛、謙遜、優しさがあったからです」。



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                   令和 3年 11月 6日


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