チマッティ神父の主治医のことば (森口幸雄医学博士)   




森口先生とチマッティ神父

森口先生とチマッティ神父




 「神の特別な恵みにより、私がチマッティ神父の医師であったことはなんたる光栄であり、また私の霊的反省のもととなったことだろうか。 医師としても、人間としても私はチマッティ神父のベッドの傍らに立つとき、いつも大きな責任にくらべ精神的にいかに小さいものであるかという反省が、 自然に頭の中に浮かぶのであった。医師として多くの患者の中で、チマッティ神父ほど偉大な人をみたことがない。 もちろん、肉体を持った人間であり、天使でない以上苦しいときは苦しい表情をし、痛いときには痛い顔もするのは当然である。 それにしても、人間的、生理的、生物学的なものをすべて超えた次元で、チマッティ神父はすべてを考え、行動しておられたとしか思えない。
 私は、苦痛に苦しむ患者の前に立つとき、この人は忍耐があるとか、あの人は忍耐が足りないとか批判する気持ちは少しもない・・・
 ところが、チマッティ神父はあらゆるカテゴリーを超えた、ずっと上の感受性をもっていたと考えられる。 私に言わせると、「超感受性」の持ち主であり、その「超」はチマッティ神父の多年にわたる信仰による修練と献身とによって、自分のものとなったと考えざるを得ない・・・
 医師の目から見て、チマッティ神父は、その生物学的反応まですでに信仰と超自然な訓練により、自然に統治されているとしか考えられなかった。 チマッティ神父を診察することを通じて、私は「霊的な力が、いかに、生理的、生物学現象に大きな力となり、影響を与え得るか」ということを体験した。
 直感的な考えで申し訳ないが、チマッティ神父の傍に行くとき、私はいつも「何か」を得て帰ってきたということである。 この「何か」は、具体的に「何である」か、私には分からないが、神の恵みを受けている人、神と一致している人、 神とともにのみ生きている人とは、このような人であろうと常に感ずるようになった。
 チマッティ神父が病気であった二年半のあいだ、私には、一回も説教も、また霊的な話もなされなかったが、 師が無言で、またからだ全体で私に教えてくださったことは、何千回の説教を聞く以上に価値があり、 また聖人は事実この世に存在し得るという確信をもつことができた。 チマッティ神父より、一度も霊的な話を聞く機会に恵まれなかったが、神は事実をもって、無言のうちに、 神の存在、神との一致、神への完全な委託という私達の永遠の生命へのもっとも価値の高い考えを可視的事実をもって私に示してくださった。 師がもし聖人でなかったとしたら、この世に一人も聖人はいないだろうし、私達が聖人になろうと努力することはまったく無駄なことである。 全能の神が、私に医師という立場を利用して下さって、真の聖人を示してくだされ、 また私の弱い信仰に大きな勇気と刺激を与えてくださったことに衷心から感謝している。」
                                      (クレバコレ神父)「微笑み、慈愛と祈りの人チマッティ神父」より



                                

                                                    チマッティ資料館
                                                     マルシリオ神父
                                                 令和 6年 3月 6日


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