サレジオ会修道士とチマッティ神父   




アルテミデ・ザッティ

アルテミデ・ザッティ修道士

兄Luigiとヴィンツェンツォ・チマッティ

兄 Luigiとヴィンツェンツォ・チマッティ



  なぜこのテーマを選んだのでしょうか  


 今年の10月9日にサレジオ会のアルテミデ・ザッティというサレジオ修道士が教皇フランシスコから、ローマで列聖されたからです。
 チマッティ神父とザッティ修道士の関係は何だろうか。
 3つのことが言えるでしょう。二人ともサレジオ会員であり、同時代の人であり、宣教師であった。
               ザッティ師    |   チマッティ師
   同時代性:         1880年 誕生   |   1879年 誕生
                 1951年 死    |   1965年 死
   宣教師としての働き   アルゼンチン   |   イタリアと日本
             貧しき者のドン・ボスコ|  日本のドン・ボスコ

 下記をクリックすると、パワーポイントで「修道士とチマッティ神父」をご覧いただけます。
   「修道士とチマッティ神父」



  クレバコーレ師が書いた「チマッティ神父の伝記」    


 クレバコーレ師が書いた「チマッティ神父の伝記」によると、ヴィンチェンツォはファエンツァ町の小学校へ通っていた時に、 午後を町のサレジオ・オラトリオで過ごしていたようです。 10才も年上であったLuigi兄さんの肩に乗せられて、そこで、大きな子が歌の練習をしていると、 年取っていたPaulino修道士の監督の下でヴィンチェンツォは寝たり、遊んだりしていたようです。
 チマッティ神父自身の言葉によると、1882年5月に3歳の彼と13歳であったLuigiもお母さんと共にいて、 ファエンツァを訪れていたドン・ボスコを見ました。その年の3月にお父さんが亡くなり、家族は経済的に困り始めたのです。 ところがLuigiは悪い友達に誘われてお母さんを助けないで町を遊び回っていたようです。 ある夜、Luigiは夢の中で怒った顔をしたお父さんから叱られました。その夢から深い感銘を受けたLuigiは、 普段騒ぐ人であったのにしゃべらなくなりました。彼は靴屋の店で手伝いをしていましたが、店の主人はそれに気づき、 理由を聞いて、ファエンツァ・サレジオ会のオラトリオに行くことを勧めてあげました。 お店の主人の息子が、もうすでにオラトリオへ通っていましたから、Luigiをオラトリオに案内しました。 このようにして、Luigiもヴィンチェンツォもサレジオ会を知るようになり、 時間が経つにつれてサレジオ会への召命が芽生えるようになりました。
 Luigiは修道士になり、5〜6年間イタリアの支部で働いてから、最初にメキシコ、そしてペルーに宣教師として派遣されて、 そこで60歳で亡くなりました。彼も音楽のタレントに恵まれていて、生活を送った支部で典礼と音楽に力を注いだのです。 どんな所にも良い思い出を残したようです。ヴィンチェンツォが司祭になるまで、二人ともイタリアにいて、 連絡を取り合っていたようです。
 Luigiは南米へ行ってからも、チマッティ神父に手紙を出していたようですが、残念ながらチマッティ資料館には何も残っていません。 しかしながら、二つの事が知られています。一つ目は、チマッティ神父が日本に派遣されてから、 Luigi兄さんは弟に自分も日本に呼ばれるようにと言うことを頼んでいました。 チマッティ神父の返事はいつも同じでした。「目上から派遣されているところで働きなさい」と言うことでした。 二つ目は、Luigiがペルーで亡くなったことの知らせが3か月も遅かったことがチマッティ神父に大きな悲しみをもたらしたことです。
 こういうことからも、チマッティ神父は修道士と深い関係と関心があったこと、 彼らのために祈っていたことが分かります。



  日本に派遣された最初のサレジオ会宣教師は、司祭6人、修道士3人    


 1925年の終わりに、日本にサレジオ会宣教師の最初のグループが派遣されました。会員は9名で、6人は司祭、3人は修道士でした。 チマッティ神父は特にこの3人の修道士の事を配慮したと言われています。
 その名前はGiovanni De Mattia(37歳)、Luigi Guaschino(32歳)、Alfonso Merlino(24歳)。宣教師たちは1926年を日本語の勉強に充てたのです。 修道士たちは3か月の勉強の後に、授業を諦めて、自分で勉強するようになりました。 しかし司祭たちよりも日本語の会話が上手になっていたようです。
 De Mattiaは精神不安定でわずか2年でイタリアに帰り、40歳で亡くなりました。Luigi Guaschinoは長年日本で働いてからイタリアにもどり、1972年に亡くなりました。 Alfonso Merlinoは一番若い人で、10年間ぐらい日本で働き、そしてイタリアに戻って、ずっと日本のサレジオ会管区のために祈りを捧げたり、 宣伝したり、寄付を集めたりしていて、1986年に亡くなりました。
 彼はチマッティ神父が生きていた間(1965年まで)、チマッティ神父と文通していました。チマッティ資料館に110通の返事の手紙が残されています。
 Merlino修道士は三河島のサレジオ会の支部で働いていました。ここでチマッティ神父のMerlino師の一つの手紙への返事を紹介します。 それを通して、チマッティ神父がいかにサレジオ会修道士を大事にしていたかが分かります。チマッティ神父は人の手紙に必ず返事をする方であったのです。

 「Carissimo Merlino, 1927年5月1日
  あなたの手紙に、綺麗なあなたの心が見られます。
  あなたの日々の努力は私に慰めを与えています。
  マリア、イエス、ドン・ボスコはあなたのことをとても喜んでいます。
  病に伏しているPiacenza神父(三河島教会の主任司祭であった)のために献身的に尽くしていることを心から感謝します。
  忍耐をもってお続けください。すべてを見ておられる主は必ず報いて下さるでしょう。
  私のためにもお祈りを。」



                                

                                             チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                  令和 4年 11月 6日


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