キリスト者は洗礼によってイエス・キリストの生活と心を模倣することに招かれています。イエスの心とは御父の御旨を果たすことです。
修道者にとっては御父の御旨を果たすとは所属する会の会憲とそれを解釈する長上らに従うことです。
さて、チマッティ神父は17歳の時にサレジオ修道会に入り、貞潔・清貧・従順を守りながら、その会憲に従う誓いをたてました。
若い神学生の質問
私の神学生時代に、83歳のチマッティ神父とお茶を飲んでいました。その時、私達の一人が彼にこの質問をしました。
「チマッティ神父は、若い時に修道者になったのですね。その時の自分と今の自分とを比較して、何か変わったことがありますか」
彼はためらうことなくこのように答えました。
「私はその時には修道生活のことをあまり分かってはいませんでしたが、自分を神に全面的に委ねたかったのです。
今は自分を神に委ねるということの意味を良く理解するようになりました」
他の時にもう一人の神学生が彼に尋ねました。
「チマッティ神父は、長年長上の身分でしたが、今は私達と同様にそうではないですが、どちらの生活がもっとも容易でしょうか」
返事はこれでした。「長上でない方が容易。言われることを行えば心の平和を体験する。
長上なら、自分にとってだけでなく人にとっても神の御旨は何であるかを見極めなければならないので、ときには難しく辛いことです」
人の上に立つのは大変嫌いでした
さて、チマッティ神父は自分の生活においていつも従順だったのでしょうか。彼は若い時より実直な性格の持ち主であったので長上らから愛され、
あらゆる責任ある仕事を任されました。彼はとても均衡の取れた人であったが人の上に立つのは大変嫌いでした。
86年間の寿命の中で40年間も長上の生活を送ったのでした。上の長上らに何回も手紙で自分のポストを他人に譲る願いを出しました。
それにはこのような考えを主張していました。
「目下(めした)であるなら、神の御旨をより確実に果たせる」
「長上に従順することは幸せを体験することです」
「自分には違った考えがあっても、長上の命令に従うことは神の前にお手柄になります」
長上としてのチマッティ神父は会員から尊敬され愛されました。長上らに毎月働きの報告を出し、困難をありのままに打ち明けていました。
尊敬、愛情、従順はこの上もないものでした
82歳の高齢者になって目下としての生活をゆるされました。この時に自分の長上に手紙を書いています。
「神の御前で一番適当と思われる通りに私のことを決めて下さい。どんな任務、地位、場所であれ、日本と他の所にも行く覚悟でいます」
自分の最後の院長にこう言っていました。
「今から絶対的な従順をもってあなたに従いたいと思っています」
目上の年齢と功績を意にすることなく、自分の長上に対して示していた尊敬、愛情、従順はこの上もないものでした。
それを体験した者はそれが簡単に模倣できるものではないと確信していました。
チマッティ資料館 マルシリオ神父
2020年12月7日
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