チマッティ神父は貧しい家庭に生まれ、17歳になって、アッシジの聖フランシスコの祝日(1896年10月4日)に、サレジオ会で修道誓願を宣立し、
生涯に渡ってこの聖人の貧しさを模倣しようとしました。
トリノ・ヴァルサリチェ学院の校長になってからも、サレジオ会総長であったアルベラ神父に手紙を出し、宣教地に送られる願望をこのことばで表しました。
「私は他の地方の空気・・・物質的・精神的な貧困のあるところを・・・それが多ければ多いほど、歓迎します。」
チマッティ神父の生活は、どの時期を取り出してみても、あらゆることから離脱し、旅行、住居、飲食、服装、履物において、貧しきものの生活を送りました。
「私はお金がもっとも嫌いなものだ」とばしば言っていました。
私達の信者の多くは貧しい
日本で宣教活動の開始に当たって、彼に喜びとなったのは、信者の大部分が貧しかった事実でした。「私達の信者の多くは貧しい。
ベトレヘムのイエスさえも彼らほど貧しくなかった。ここは本当に私達がいるべきところです。」
彼は金があるときに願われると拒まないたちで、いつも欠乏していて、むしろ願う側の立場にいました。
管区長・教区長であった時代にこのように書いています。「毎日の糧を得るのに、それこそ争い続けなければならないし、
会員や来客を泊めるためには、私の部屋を譲る以外にどうすることも出来ない。」
彼は使い古した衣類を好んで自分の使用にあて、可能な限り使い続けていて、彼に新しいものを身に付けさせることは不可能でした。
夏や冬の区別もなく、いつも同じスータンや背広を着用し、靴は足よりも大きく軍人が使うものでありました。彼の部屋には僅かな本しかありませんでした。
旅行には、長距離を行く時でも当時の3等車を利用していました。いつも同じ古びたカバンを携帯していました。紙切れを勤勉に集めそれを用いて書いていました。
チマッティ神父はアッシジの聖フランシスコのような人であった
チマッティ神父は晩年を調布で過ごしましたが、最後の4年間は長上ではありませんでした。この時期に、価値のないと思われるものの処分の際には、
いつも長上の許可を願っていました。
チマッティ神父を知るようになった一人のフランシスコ会の神父は、彼についてこの言葉を書きました。
「アッシジの聖フランシスコは丁度チマッティ神父のような人であったと思っています。聖フランシスコは彼のように、快活で晴れやかで、特に貧しく、
どんなことからも離脱していた人でした。」
チマッティ資料館 マルシリオ神父
2020年11月25日
諸徳目次へ
|