尊者チマッティ神父の英雄的な節制




チマッティ神父




 尊者チマッティ神父の列福・列聖調査のために、バチカンに出された「文書」から、神父様の英雄的な節制という徳について書かれたものをそのままに紹介させて頂きます。 違った時代のものに見えるかも知れませんが、聖性すなわち神への道とはどの時代にも同じ要素を含んでいます。


  善のためである、有益であると思って受け取る苦しみ


 チマッティ神父の生活には節制という徳がずば抜けていました。彼は決して利益や便宜、感覚的な満足を求めたりはしませんでした。自分のことについてまったく無関心でした。 それもわざとらしくなく、苦しみのための苦しみを求めるのではなく、その苦しみを善のためである、有益であると思って受け取っていました。 そして、彼の行き届いたこまやかさは、その苦しみを外部に表したりはしませんでした。
 彼は死の三日前から、身体的に大変な苦しみに会いました。神学生の私達は夜も昼も交代で彼を見守っていました。私が夜の11時から次の日の朝6時までの当番の時でした、 彼は悶え苦しんで声を出してうめいていました。私は彼に、「神父様、天国は近いですね!ドン・ボスコのことばを思い出して下さい。<だれも馬車に乗って天国へ行くことはありません>。」 と耳元で囁いたら、彼はうなずいてから、うめかなくなりました。


  英雄的な節制


 暑さと寒さを耐えるのに本当に英雄的でした。扇風機やストーブなどの人工的冷暖房を自分から使用することを避けていました。朝早く起きていましたが、日中休みを取ることはありませんでした。 食べ物には無関心で、好き嫌いをしなかったばかりでなく、粗末なものより好み、食事以外の飲食は厳格に控えていました。食卓に出されたものに味を付けたりせずに、そのまま口に運んでいました。 教会とサレジオ会の決まりに従って、小斎大斎を守っていたばかりでなく、自分で新たなものを加えていたので、常に大斎を守っているような印象さえ与えていました。
 共同体および自分の任務の時間割りを几帳面に守り、日常生活においても非常に秩序正しかったのです。
 旅行中や催しもの間にも非常にデリケートに、他人が気づかない方法で、人目を忍んで、神から特別な恵みを得るために通常でない祈りや苦行をしていました。 しかし、それをしながら懸命に隠し通していました


  真の修道者


 やはりチマッティ神父は自分に対して本当に厳しく、真の修道者であり、苦行を表に出していた昔の修道者と、精神の上で同じ生活をこの地上で送ったのです。
 きっと教会は彼の高い聖性を近いうちに認めるようになるでしょう。

                                                     チマッティ資料館  マルシリオ神父
                                                     2020年10月10日



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