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オペラ『細川ガラシア』1940年復刻版の完成に至るまで…
(寄稿: 作曲家 小栗克裕氏)

Last Update:
08-11-05
【注釈:皇紀2600年】

西暦1940年の「皇紀2600年奉祝行事」は国を挙げての大事業であった。「皇紀」とは「キリスト誕生紀元」のような独自の紀元をたてないと西洋に文明国として対抗できない、と明治政府によって定められた。その元年は初代天皇、神武の即位年とされ、その年は『日本書紀』の記述に従い、「キリスト誕生紀元前660年」とされた。日本は少なくとも歴史と伝統では欧米に負けない!という意味からも無理に歴史を作り上げた、と言うことだが、2600年という大きな区切りに当たった1940年は、明治維新以来の近代化の成果を全世界に問う特別な1年にしようとし、東京ではオリンピックや万国博覧会も開かれる筈だった。しかし「国際情勢の悪化」に伴い、それらの祭典は中止になってしまった。世界は日本の神話を祝うどころではなくなっていた。そこで「皇紀2600年」は対外的に日本の国威を発揚するというより、危機の時代に向かって国民の更なる団結を促進するための国内行事の性格が強くなった。事実、日本は中国との戦争を収拾できずにおり、またアメリカとの関係を悪化させつつあった。政府は国民に来たるべき大戦争へ備えさせようとしていたし、そのためにも日本人としての歴史と伝統への誇りを改めて強調しておかなくてもいけなかった。

理由はずいぶん血なまぐさいことではあるが、演劇や映画や美術や音楽では新たな試みがなされ、歴史的新作が目白押しとなった。日本文化中央聯盟や建国祭本部やNHKなどの委嘱により、あるいは自主的に、多くの「奉祝楽曲」を国家と国民に捧げた。そこには、山田耕筰のオペラ《夜明け(黒船)》と音詩《神風》、橋本國彦の交響曲第1番ニ調、清瀬保二の《日本舞踊組曲》、大木正夫の交響詩曲《羽衣》、箕作秋吉の序曲《大地を歩む》、菅原明朗のカンタータ《時宗》、深井史郎の舞踊音楽《創造》、江文也の同じく《東亜の歌》、高木東六の同じく《前進の脈動》、松平頼則の同じく《富士縁起》、大澤寿人のカンタータ《万民奉祝譜》と交響曲第3番、須賀田礒太郎の《興亜序曲》と《双龍交遊之舞》、尾高尚忠のピアノ・ソナチネ、早坂文雄の《序曲ニ調》、伊福部昭の交響舞曲《越天楽》、市川都志春の交響組曲《春苑》などが含まれる。また首相を代表とする皇紀2600年奉祝会により諸外国の作曲家への祝典曲委嘱も行われ、リヒャルト・シュトラウス(ドイツ)、ピッツェッティ(イタリア)、イベール(フランス)、ブリテン(イギリス)、ヴェレシュ(ハンガリー)の作品が集まった。奉祝の公式曲は荘重で儀式向けのものとして「紀元二千六百年頌歌」、一般向けの行進曲風の奉祝歌として「紀元二千六百年」が当時ラジオから毎日のように流れ、大流行した。

 日本人の作曲による初の本格的なオペラといわれる山田耕筰作曲「黒船」は、1940年11月に初演された。これより先立つこと10ヶ月前の1月24日、東京日比谷公会堂にて初演されたオペラ『細川ガラシア』は、注釈参照皇紀2600年【注釈参照】の記念公演の一環として、当時は新聞などでも大変な話題となった。イタリア人の作曲、ドイツ人の脚本、日本人のオーケストラ編曲と、当時の日独伊三国同盟が一つの作品を作り上げたわけである。演奏は2人の歌手(今泉威子と神宮寺雄三郎)と17人の歌舞伎役者や東宝劇団の俳優、そして合唱という歌舞伎とオペラが合体した画期的な公演だったようである。作曲にあたったイタリア人宣教師チマッティ神父は、公演後「メロディーはイタリア的であるが、日本独特のメロディーも取り入れている。日本ではまだ生まれていないヨーロッパ風のオペラの下準備といえる」と語っている。しかし現在、このような事実はほとんど知られていないことであり、だからこそ今回のこの復刻版の公演は日本の音楽界に新たな歴史を作ることとなるであろう。

 私は去年の暮れ、依頼される仕事の内容をお聞きするため、調布にあるチマッティ資料館に初めて訪れ、館長のガエタノ・コンプリ神父とお会いした。

もう39年も前に亡くなったチマッティ神父は、900以上の作品を残し、その代表作は『細川ガラシア』というオペラであり、しかもそれは日本語による初のオペラだったのだが、初演の際のオーケストラスコア(オーケストラ編曲は山本直忠氏)も演奏の録音も残っていない。しかし今回の生誕125周年記念公演でなんとか1940年に演奏された音楽を再現したい、という熱意をコンプリ神父は語られた。

チマッティ神父のこと、オペラ『細川ガラシア』の存在を全く知らなかった私は大いに興味をもったのである。

さて、原典版に関する資料は、チマッティ神父によるスケッチくらいしかなかったが、1959年にチマッティ神父の監修のもと神宮寺雄三郎氏(1940年の初演の際は歌手として参加)によってまとめあげられた全曲のピアノ伴奏版(ボーカルスコア)、そして翌年1960年に塚谷晃弘氏の編曲によるオーケストラ全曲版の楽譜を見せていただいた。また、熊本県民オペラで公演された「細川ガラシア」(出田敬三作曲・補作)のプログラムやテレビでの放映の模様もオーケストラ補作にあたり資料としてお借りした。これまでに3人の作曲家によってオーケストレーションや改作がなされた経緯は大変不可思議なものであり、これから私の手によってこれらの資料からどうやって原典版の形に復刻して行ったらいいのか、と最初から難題にぶちあたってしまった。まず今までの演奏の経緯にも多くの誤りがあるようなので、楽譜やビデオによる演奏資料を徹底的に研究することにした。

昨年10月東京オペラシティコンサートホールで行われた『ドン・チマッティ音楽個展』と題するコンサートのプログラムを見ると塚谷晃弘編曲版のハイライト、と書いてある。が、ビデオを聞くと1959年神宮寺雄三郎写譜版を演奏しているではないか。また、その演奏会より前に全曲版と称して教会で演奏しているビデオを見ると、たしかに1959年神宮寺雄三郎写譜版を演奏しているのに、途中から塚谷晃弘編曲版のボーカルスコアが突然演奏され始められるではないか。また、熊本県民オペラはほとんどが出田敬三氏のオリジナル作品ではあるが、2幕では多くの部分で塚谷晃弘編曲版が用いられていた。しかしそれは原曲の楽譜を参考にした、と書いてあるが、ここでの原曲はチマッティ神父のものではなく塚谷晃弘編曲版を指しているではないか。

1959年神宮寺雄三郎写譜版と1960年に塚谷晃弘編曲版はどのような違いがあるのだろうか。この疑問はチマッティ神父が1960年の公演をご覧になった際に語られたお言葉で容易に解釈できる。神父はこう語られた。「自分が作曲したメロディーを聞こうとして耳をすませていたがそれはなかなか現れなかった。オペラのあらゆるところに、その心から湧き出た新鮮で快い音楽の情熱が冷まされたり、抑えられたりして、作品が作り変えられていたのである。」と。またガラシアの有名な「別れの歌」の高音が下げられて歌われたことを耳にした時、チマッティ神父は寂しそうに頭を下げ「御旨のままに!」とつぶやいたそうである。1960年の公演の際のプログラムに塚谷晃弘氏は次のような言葉を残している。「チマッティさんの美しさ、清らかさをスポイルしないで、現代人にも訴えるような編曲をと心がけながら、かえって改悪になりはしないかとおそれている」。おそれは的中してしまい、チマッティ神父の期待に反した編曲(ほとんど改作に近い)を行ってしまったのである。

このことはスコアをみても明らかである。故意に現代的に作り上げられたオーケストレーションにはそれなりの意味はあるかもしれないが、オペラの本場からいらしたイタリア人の優雅で素直な旋律ラインを無理に歪め、日本の当時のオペラ作品の手法の型に無理やりはめ込み、さぞや歌い辛かろうと思われる長調、短調の入り乱れる増音程の旋律(しかし無調と言うほどではないのだが)は、ふと口ずさんむだけで清らかな心にさせてくれるチマッティ神父の旋律とは似ても似つかないものに変形されている。

何より残念なことに、その改悪なる編曲がチマッティ神父の原曲だと長年思われて再演し続けられてしまっていることである。1959年神宮寺雄三郎写譜版は、塚谷晃弘氏がオーケストレーションするために参考となるように、とピアノ伴奏版(ボーカルスコア)が制作されたものである。1940年当時のスケッチをまとめ上げ、グランドオペラとして立派なものにするために、多くの部分の音楽を新たに書いたと思われるが、明らかにその後行われるオーケストレーションへの要望も書かれていて、完成した作品とは言えない。例えば、第3幕の間奏曲がイタリアオペラの伝統にのっとり、プッチーニやマスカーニのような甘いメロディーで作曲されているが、2曲(そのうち1曲はもともとピアノ曲として書かれたもの)が存在し、楽譜の片隅に「音楽の所々をテーマにしてキリシタン迫害の音楽を間奏曲として作って下さい」とメモ書きしてある。また他の場所には「調子を変えてもう10小節位、Timpani がほしい」などという要望も書いてある。音が薄すぎてピアノで演奏するにも和音が意味不明のところも多々ある。緻密に、しかも美しく書かれているところと、どうもまとまりのなく、明らかに無理につなげようとする部分の音楽的な差は大変著しい。神宮寺雄三郎氏の写譜も記譜のミスが大変多く、譜面も汚い部分が多いため、とても清書したようには見受けられない。しかしチマッティ神父は「3年間、時間にとらわれず自由に楽しみながら書くことができた」と1960年公演のプログラムに書いている。他の多くのチマッティ神父の作品から比較しても、この1959年神宮寺雄三郎写譜版は音楽的に不完全な部分が多すぎて不可思議である。私の推測としては、1957年にチマッティ神父は軽い脳血栓で倒れているし、すでに77歳と高齢であったし、退院後も調布サレジオ神学院院長職をなおも5年間続けていたことを考えると、日々多忙な中、しかも2、3年は元の健康体に戻ることのできない脳血栓の発病後であるにも関わらず、神宮寺雄三郎氏の尽力によって実現しようとしているグランドオペラ化の夢を追い求めて、時間を無理に作りながら、必死で作曲したのではないかと思われる。しかも写譜を任せた神宮寺雄三郎氏の提案が作品に多く取りこまれている可能性さえあるように思う。「どんな不完全な形であれ、全曲のボーカルスコアさえ完成すれば、塚谷晃弘氏が立派にオーケストラに仕上げてくれるであろう」という期待がこめられていたのではないだろうか。だからこそ、1960年の公演後のチマッティ神父の嘆きのお言葉が誠に悲しく聞こえてくる。そして、これを感じたとき、私自身は決して同じことを繰り返してはならない、と思ったのだ。

以上が、1940年原典版を復刻するために調べた楽譜や新聞記事、プログラム原稿などの資料を研究することによって得られた、私のこの作品に対する思いの結果である。そして1940年に初演されたチマッティ神父の音楽を私が再現するには、今まで行われてきた経緯からは違うところにスタートラインをおいて、補作、オーケストレーションを行うことにしなければならないことを感じ、そしてそのことに対するヒントは、チマッティ神父が語った「このオペラにイタリアの古い形式と劇的効果から新しいいくつかの試みをしました」という言葉である。ここで言う古い形式とはチマッティ神父のスケッチを見る限りでは、ロッシーニ(1792〜1868)ドニゼッティ(1797〜1848)、ベリーニ(1801〜1835)ほど古い時代ではないが、ヴェルディ(1813〜1901)のように情熱的な音楽とはまた異なったものであり、プッチーニ(1858〜1924)、レオンカヴァロ(1858〜1919)マスカーニ(1863〜1945)といった作曲家の音楽に最も近いものを指すであろう。チマッティ神父の作品のほとんどが宗教音楽であるように、このオペラの中の最も優れた、かつ個性的である部分は、神聖な宗教的響きを重視している点である。また1940年初演の際に「チマッティ氏の作曲には日本人の作ったものよりも、より日本人的なメロディーが現れて(これは皮肉な現象である)おもしろく聞かれた」と批評にも書かかれているように、「さくらさくら」が様々に形を変えて現れたり(時にはプッチーニの「蝶々夫人」よりも見事に)、ガラシア夫人の和歌がすばらしい日本風の旋律によるアリアになっていたり、やはり日本人以上に日本の心を理解していたのかもしれない。たしかに各所で「劇的効果から新しいいくつかの試み」がなされているが、やはりイタリアの大作曲家たちの書法を意識したものが多い。しかし残念なことに、チマッティ神父がオーケストラをイメージする能力をあまり持ち合わせていなかったためか、人の手にオーケストレーションを委ねてしまった、ということが、この作品の真の姿を消し去ってしまったという不幸の始まりだったのかもしれない。

最初にオーケストラ編曲、指揮した山本直忠氏の楽譜や音が全く発見されないことによりその編成もわからないが、私なりにオーケストレーションするにあたって次のようにした。まず、ベートーベンからロマン派初期にいたるオーソドックスな2管編成(フルート、オーボエ、クラリネット、バスーン2本ずつ、ホルン4本、トランペット2本、ティンパニー、弦楽5部)を基本に、それにハープと全曲でも数カ所しか出てこないシンバル、シロフォンのみの打楽器で楽器編成した。オーケストレーションも極めて古典的で、弦楽器を中心とした響きを重視し、決していたずらな金管楽器、打楽器の乱用はせず、また木管は常に旋律的で美しく声と調和するように処理されている。私が補作した部分は、まず和音進行が不可思議な部分には適切な和音を与えて手直ししたことである。もちろんオーケストラに必要な音が書かれていない(足りない)部分が多かったので、対旋律などを書き加えた部分もある。そしてもう一つ、チマッティ神父の旋律ラインを決して崩さずオーケストラに演奏させながらも、日本語のイントネーションを大切にしながら声楽パートに手を加えていった。きっとチマッティ神父本人は果たさなかったが、自らがオーケストレーションを行ったとした場合には、このような音を要求していたのであろう、と私なりに想像して、筆を進めること6ヶ月、こうしてついに1940年復刻版のオーケストラスコア、そしてボーカルスコアが同時に完成したのである。

私は現代に生きる現代音楽の作曲家ではあるが、常々、古典派からロマン派の音楽を愛し、旋律の美しさ、和声の美しさを自分の作品にも求めてきた結果が、今回の1940年復刻版の完成につながったと思う。クリスチャンでもない私が、神様に一番近いところから発せられた心の音楽に、毎日触れることができた半年間がどんなに私の生活を充実させ、しかも幸せな気分をもたらせたことか、言葉で表すことは不可能であるが、感謝でいっぱいである。そして精神、気力をいつも同じテンションに保ったままで作品全てに向かうことができたのも、多くの方々の励ましのお陰と、天国におられるチマッティ神父の御恵み、そして神の恵み(ガラシア)に他ならない。

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