パウロ・マレラ司教のバチカンへの手紙
チマッティ神父は1935年には宮崎知牧区の教区長に任命されました。
彼は自分の名前が上げられているのを聞いて、選ばれないために、バチカンとトリノの目上に手紙を出しました。
その時の日本の教皇使節であったパウロ・マレラ司教はバチカンに手紙を送り、
チマッティ神父について次のことばを書きました。
●「チマッティ神父は宮崎独立宣教地の責任者であり、55歳になっていて、宮崎知牧区の第一人者の教区長になる資格を持っています。
自然科学者でも
あるが、多くの能力の持ち主であります。健康と活力に満ち溢れ、福音宣教のことで、安い切符を手にして、
夜行列車で夜を過ごす時がしばしばです
が、何もなかったかのように次の朝には必ず普段の仕事にかかる人であります。
彼は宣教師たちにとって誠に寄りすがれるお父さんで、皆から尊敬さ
れています。
朗らかで素朴なやり方で人に寄り添い、つたない仕事であってもそれをも喜んで受け入れ、皆に信仰と犠牲精神の模範となっています。
困難を恐れずに、疲れている会員を言葉と冗談を持って励まし慰める術を知っています。
友達を作る天性の才能の持ち主で、町の政治家の好感を得て
います」。
(Congregatio pro Causis Sanctorum,Positio super virtutibus,Vol 1,p.174)
ペトロ・アッルペ神父のチマッティ師についての証言
日本で長く働いてから、イエズス会の総会長を努めたペトロ・アッルペ神父のチマッティ師についての証言もあります。
チマッティ神父の死を知った時のことばです。
●「チマッティという名前を耳にすると多くの思い出が頭に浮かんできます。彼を知るようになったのは1941年です。
その時から彼との長い付き合いに
恵まれました。1941年に彼は宮崎にいて、私は山口教会の主任司祭でありました。
山口教会でコンサートを開いた時に、私もチマッティ神父のピアノ
伴奏で歌うことが出来ました。
その時以来、彼の慈愛、親切、使徒的情熱を目撃する多くの機会がありました。
彼の私と人に対する愛情と尊敬は簡単
に忘れられるものではありません。
時間と共に、生活の違った状況にもかかわらず、チマッティ神父の活動が全日本に知られることとなり、
私にも慰めと喜びの元となりました。
チマッティ神父の宣教師としての姿に二つの点が目立っていました。彼は日本国民と完全に一致することに成功し、
また差別なく、だれとでも兄弟
的な協力の面で抜群でありました。
そういう訳でチマッティ神父は、サレジオ家族ばかりでなく、彼と何らかの関わりを持ったすべての人にとって、
福音宣教活動の新たな想像的な刺
激となりました。チマッティ神父の姿は誠に偉大な宣教師の姿で、
日本福音宣教の歴史に残るでしょう。
(Testimonianze,Vol.1,p.56)、(1966年6月16日)。
チマッティ資料館
マルシリオ・ジョバンニ神父翻訳
令和 6年 10月 6日
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