宣教活動するチマッティ神父の評価   




1928年4月教区長会議

1928年4月教区長会議

1936年4月 教区長会議'

1936年4月 教区長会議'



   宮崎・大分独立宣教地区教区長に推薦される   


 2年前に来日したばかりのサレジオ会員の仕事が実り、1928年に、宮崎・大分両県は福岡教区から分離して、 「独立宣教地区」となりました。
 教区長を推薦するために、3人の名前がバチカンに出され、その中にチマッティ神父の名前も上がっていました。 バチカンは日本の教皇の使節であったマリオ・ジョルダニ司教(1922-1931)に意見を伺って、 チマッティ神父について次のことばを送られました。
 「ヴィンチェンツオ・チマッティ神父は49歳で、最初の時 (1926年) から宮崎宣教地の責任者であり、 サレジオ会活動の抜きんでた指導者であります。彼は鋭敏な知的能力に恵まれ、置かれている状況を素早く理解出来、 必要である適切な処置を与えることの出来る方であります。その不思議な活動力を見て人が驚いています。 御摂理に信頼しながら、行いにおいて、賢明さ・デリケートさ・大胆さのあるイニシアチブの精神を表しています。
 トリノ・ヴァルサリチェ支部での長上としての長い経験を持ち、日本ではすべてのサレジオ会員の信頼と評価を得ています。 僅か2年間の福音宣教の活動で宮崎宣教地に満足できるような体制が整えられ、これから著しい発展が期待されます。
 彼は自分の楽天的な性格をもって、短時間で信者と未信者にも好感を持ち、近くに働く多くの修道会に積極的に協力することによって、 大きく評価されるようになっています。
 修道者として、また司祭として、彼を知るようになった人にとって、模範と見なされています。
 来日した時に、かなり年配であったので(46歳)、日本語を学ぶために大変苦労しましたが、 でも日本語をまずまず話せるようになりました」。(Positio super virtutibus,Vol.1,p.153).



   宮崎独立宣教地初代教区長に推薦される    


 1935年に、宮崎独立宣教地は「知牧区」に昇格しました。初代教区長を選ぶために、バチカンは、 チマッティ神父が出来れば他の人を選んで欲しい、と聖座に手紙で願っていたので、 バチカンは当時のサレジオ会総会長ピエトロ・リカルドネ神父に意見を諮問して、次の返事を受取りました。
 「宮崎独立宣教地の責任者であるチマッティ神父は教区長に選ばれることに一番適している宣教師であります。 彼は長上の職を嫌がっているのは確かです。しかし彼は祈りをする宣教師であり、 豊かな知識のある先生、三つの学位の持ち主、犠牲の出来る人、並々ならぬ活力をする人であります。
 教区長に選ばれないために、彼は色々な理由を持ち出すでしょうが、例えば自分の無能力、 自分と他人の霊魂の救いなど、とにかく上に立つことに反対するでしょうが、それは彼が真に謙遜なお方であるからです。 しかし彼はとても従順でもあるので、選ばれたら受け入れるに違いありません。 彼はきっと大きな善を行う人だと思います」。(Positio super vitutibus,Vol.1,p.175).



                                

                                                    チマッティ資料館
                                                     マルシリオ神父
                                                 令和 6年 9月 6日


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