宮崎のセミナリオ(小神学校)とチマッティ神父   



中津の小神学校

中津の小神学校

1934年1月28日宮崎小神学校の落成式

1934年1月28日宮崎小神学校の落成式


1935年3月 東京大神学校へ飛び出す神学生

1935年3月 東京大神学校へ飛び出す神学生



   日本人の司祭たちを早く養成しないといけない   


 チマッティ神父はサレジオ会の責任者(1926-1950年)、宮崎・大分の教区長(1935-1940年)であった時、 色々な事業に手を付けましたが、一番心を注いだのは宮崎セミナリオでありました。
 この小神学校は中津で1930年に始まり、1933年に宮崎に移転して、1942年までに続いたのです。 1930年代に日本は経済的な危機に直面していたにも関わらず、チマッティ神父はどうしても、 宮崎に小神学校の建物を造ることにしました。当時は厳しい国家主義の考えが流行り、外国人宣教師たちは良い目で見られることなく、 いつ追放されるかを心配されていました。そういうことのためにも、 日本人の司祭たちを早く養成しないといけないとチマッティ神父は感じていました。



   宮崎セミナリオ    


 チマッティ神父は宮崎セミナリオのために小学校を卒業する宮崎県の若者、また、長崎・日本全国・韓国などから若者を募集し、 5年間の真面目な勉強をさせながらその養成に励みました。
 当時の必須科目の外にラテン語とカトリックの教えを学んでもらっていました。宮崎セミナリオで50人も生活していました。 卒業した若者は東京の大セミナリオで哲学・神学の勉強を始めることになっていました。
 当時、宮崎のこのセミナリは日本で唯一の小神学校であって、日本の多くの教区長たちが訪れていました。 小神学校での生活は、勉強、祈り、遊び、家庭的精神の雰囲気の中での養成でした。言うまでもなく、ブラスバンドもあり、 劇のグループも定期的にコンサートを披露することもありました。
 チマッティ神父はこのセミナリオの卒業生に、セミナリオを出る前に一人の後継者を見つけることを求めていました。 宮崎セミナリオの学生たちは皆が優れた能力の持ち主ではなかったが、チマッティ神父の考えは、 「一人でもここから出て司祭になれば良い。この中から、ミサを立てる一人の司祭がでるだけでも、 これに越したことはありません」でありました。
 実際に1939年3月19日に最初の司祭が生まれました。 チマッティ神父のその日の感激はことばで言えないほどのものであった。



   多くの実り    


 宮崎小神学校は12年間も続き、第2次世界大戦のため1942年に閉鎖された。はっきりと調べられないが、 多くの実りがあったと認めなければならない。宮崎セミナリオの12年間の働きは19人の司祭を日本に与え、 10人の教区司祭、9人のサレジオ会員、3人の修道士でありました。 宮崎セミナリオの最後の年の生徒から40人は戦争に行き、10人は死者となり、20人は戻ったが病気のため、 司祭の道を断念することになりました。

                                

                                                  チマッティ資料館
                                                  マルシリオ神父
                                                 令和 6年 12月 6日                                                   


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