クレヴァコーレ神父の「チマッティ師の伝記」から
『チマッティ神父が音楽を心から愛し、大切にしていたことはだれにも容易に見てとれたのです。
それは典礼や何かの演奏会の時に、オルガンやピアノで合唱団の伴奏をする彼の姿を見れば明らかでした。
彼のオルガンでの即興演奏は、魂を揺り動かして天に上げる祈りのようでした。
師は自分がすばらしいバリトンの声の持ち主であったにもかかわらず、主に伴奏ばかりをされていましたが、
オペラや自分の作品を自ら伴奏されている師の姿を見るのは、私にとっても喜ばしいことでした。
チマッティ神父と音楽という二つの言葉は、切っても切り放せない関係にありました。
ファエンツァでわずか5歳の時に、初めて市民劇場の舞台に立ってオペレッタの主役を務めましたが、
幼稚園の仲間達と共に拍手喝采を沸き起こしましたし、お祝いの席で歌を歌って、
イタリアの有名な詩人ジョバンニ・パスコーリからキスの祝福を受けたのも、まだ小学校の低学年の時でした。
学校での友人が歌手としての彼について、「子供の頃から豊かで、澄み切っていて、広がりのあるソプラノの声をしていました。
また、あっという間に曲を理解し、覚えて『独唱』を披露するので、聞いている人がびっくりするほどでした」と証言しています。
ファエンツァ市のセコンド・グアダニーニ氏は次のように書いています。「彼は楽々とシのフラットまで出す。いや、高いドさえも出せる!」。
歌うのと同じくらい小さいときからピアノやオルガンも始めていて、それで作曲もしていました。
一度音楽を始めたら、止まることはありませんでした。サレジオ学院のヴァルサリーチェでは28年間、音楽の先生でした。
たくさんの生徒達が師の音楽を携えて世界中に行き、師の名声を広めたのです。
47歳の時に日本に渡り、それまでと同じように御自分の活動を続けられましたが、一方で新しい道も拓かれました。
すなわち公会堂などでのコンサートでした。ピアノのソリストとしても伴奏者としても、また時には歌手としても、
師はひっぱりだこでした。こうして日本の大きな演奏会場にも上り、そのすべての場所で親しみと驚嘆の両方を引き起こしたのです。
この極東の地で、師は約三千回のコンサートをおこなったのです。かつて師と並び称されるほどに知性のひらめきと
音楽性の幅広さを備えた宣教師がいたということを、私は聞いたことがありません。
しかもそれは日本という大変に進んだ国でのことです。
もちろん師にとって、個人的な成功などはどうでもよいことでした。大切なのは栄光を帰されるべき主であり、
神の国の実現でした。
晩年にいたるまで音楽活動は続けられましたが、目に見える大きな活動は1949年、師が70歳の時に止められたのです。
手が震えるようになっていたからです。それにしても、手を鍵盤の上に置くと、まるで活力のある若い人のように、
ピアノやオルガンを弾いていたのです』。
チマッティ資料館
マルシリオ神父
令和 6年 5月 6日
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